神戸地方裁判所 昭和24年(行)48号 判決
原告 稲田豊
被告 兵庫県農地委員会
一、主 文
原告の請求はこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は、被告が別紙目録記載の農地について兵農地委裁第五四五号をもつてなした長町直喜の訴願を認容する旨の裁決はこれを取消す、訴訟費用は被告の負担とする、との判決を求め、その請求原因として、
(一) 兵庫縣三原郡堺村農地委員会は、昭和二十四年三月中旬、自作農創設特別措置法(以下法と略称する)第三條第五項第四号に基き彌勒寺より買收した別紙目録記載の農地を、原告に賣渡すべき旨の農地賣渡計画を定め、更にこれを不服とする長町直喜の異議の申立を棄却したが、被告は、右決定を不服とする長町の訴願に対し、兵農地委裁第五四五号をもつて、法第一六條同施行令(以下令と略称する)第一八條第二号により長町を賣渡の相手方とする農地賣渡計画を定むべきであるとして、原農地賣渡計画を取消す旨裁決した。
(二) しかしながら、右裁決は次の理由により違法である。
(イ) 原告は、昭和二十年十一月二十三日以降現在に至るまで、長町直喜の不法行爲により本件農地の耕作を中断しているが、元來本件農地を小倉こまと共同耕作していた小作農であるから、法第三條第五項第四号の規定により買收された本件農地は、法第一六條、令第一七條第一項第一号に基き、その買收の時期、すなわち、昭和二十二年十月二日、翌二十三年一月二日、及び同年七月二日において耕作の業務を営むべき小作農であり、且つ自作農として農業に精進する見込のある原告に賣渡さるべきものである。
(ロ) 仮に、令第一八條第二号により賣渡の相手方を定むべきであるとするも、本件農地の不法占拠者である長町を選定したのは著しく不当であつて、却つて、原告は自作農として農業に精進する見込あるものとして、賣渡の相手方となるべきものである。
(三) しかるに、被告は、原告を相手方とする原農地賣渡計画を取消し、長町の訴願を容認したのは、前記法條に違背するから、その取消を求めるため、本訴に及んだ、
と述べた。
被告指定代理人は、主文第一、二項同旨の判決を求め、答弁として、
(一) 原告主張事実中、(一)の事実、並びに本件農地が、買收時期を原告主張の日時とし、法第三條第五項第四号に基き、買收されたものであることは、いずれもこれを認めるが、その余の事実はこれを爭う。
(二) 本件農地は、法第一六條、令第一七條第一項第一号に從い、前記買收の時期において耕作の業務を営む小作農で、將來自作農として農業に精進する見込のあるものに賣渡さるべきものであるが、從來の耕作者である小倉こまは、七〇歳を超える高令者で、買收の時期当時には耕作をしておらず、昭和二十三年四月七日以降は徳島縣鳴門市にある鳴門腦病院で療養中で、近く帰農する見込もなく、自作農として農業に精進するとは認められないから、令第一八條第二号に從い、小倉こまと同一世帶を営み、昭和二十年八月以降こまの内縁の夫安友冨士藏の懇望により引続き本件農地を耕作し、しかもこれを生業としている長町直喜を、自作農として農業に精進する見込あるものとして、これに対し農地賣渡計画を定むべき旨裁決したのである。原告は、昭和二十年八月頃、阪神地方より疎開してきて彌勒寺の一室に居住し、小倉こまの農耕を手傳つていたが、同二一年二月には小倉こまと本件農地について共同耕作契約を締結しようとしたが失敗し、同年六月小倉こまと悶著を起して彌勒寺を出たもので、一時小倉こまの耕作を補助していたにすぎず、もとより本件農地の耕作の業務を営む小作農に該当しないのみならず、当時七〇歳に近い高令者で、耕作の業務を営む後継者とてもなく、また農耕に從事した経驗もないから、自作農として農業に精進する見込があるとは認められない。以上の理由で、被告は原告を賣渡の相手方とする原賣渡計画を取消し、長町直喜を賣渡の相手方とする賣渡計画を定むべき旨裁決したのであるから、右裁決は何らの瑕疵がない。
と述べた。(立証省略)
三、理 由
兵庫縣三原郡堺村農地委員会が昭和二十四年三月中旬、法第三條第五項第四号に基き彌勒寺より買收した別紙目録記載の農地を原告に賣渡すべき旨の農地賣渡計画を定め、更にこれを不服とする長町直喜の異議の申立を棄却したが、被告は右決定を不服とする長町の訴願に対し兵農地委裁第五四五号をもつて、法第一六條、令第一八條第二号により長町を賣渡の相手方とする農地賣渡計画を定むべきであるとして、原農地賣渡計画を取消す旨裁決したことは、当事者間に爭がない。
原告は令第一七條第一項第一号の規定により第一順位の賣渡の相手方である旨主張するのでこの点について判断する。成立に爭のない甲第一号証(乙第三号証)、証人坂本勝平(第一、二回)の証言、並びに原告本人尋問の結果を綜合すれば、小倉こまは永年に亘つて彌勒寺の住職を勤め、内縁の夫安友冨士藏とともに、彌勒寺所有の本件農地の耕作の業務に從事していたところ、原告は、先祖累代の霊牌をここに祭つている関係から、昭和十九年春頃ここに疎開して來て以來、こま、冨士藏らの農耕の手傳をしていたが、昭和二十一年二月、こまは当時七〇歳を超える老令であり、原告は前記のように彌勒寺と深い因縁もあり、また食糧事情も極めて惡く將來の見通しもにわかに樂観できない状況にあつたので、本件農地について耕作権を確保しようとして坂本恒雄こと勝平を証人として、こまとの間に、共同してこれを耕作する旨の誓約書をしたためた上、その認可を受けるため、当時堺村の村長であつた藤野英一にこれを提出したことは認められるが、他方証人藤野英一、泉喜代逸、及び長町直喜の各証言を綜合すれば、右の事実を知つた冨士藏の反対に遭い、原告及びこまは右書面を取下げたのみならず、同年六月、原告はこま及び冨士藏と折合が惡くなり、彌勒寺を出て、現住地に移り、自然本件農地の耕作の補助もやめてしまつたことが認められる。証人岩田潭洲、坂本勝平(第一、二回)、岩本源六、及び池田国松の各証言、並びに原告本人尋問の結果中、右認定に反する部分は信用できないし、他に右認定を覆えすに足る資料がない。さうだとすると、原告は、本件農地について、一時こまの耕作を補助したことがあるにすぎず、法令に云う耕作の業務を営むものとは到底解し得ないから、原告の前記主張は、他の点について判断するまでもなく、失当である。
次に、原告は、被告の裁決は令第一八條第二号の規定に違背する旨主張するので、この点について判断する。元來、令第一八條第二号は、買收農地について、前條及び同條第一号に規定するような特別の関係から優先的に賣渡を受け得べきものがない場合、行政廳の裁量により自作農として農業に精進する見込のあるものと認めたものに対し賣渡すべき旨定めたものであつて、客観的にみて自作農として農業に精進する見込のあるものである以上、その何人を選定するかは、全く行政廳に委せられた自由裁量の範囲に属すると解するを相当とし、從つてそれが社会通念に照して著しく見当違いでない限り、單に当不当の問題となるにすぎないのである。かかる見解にたつて檢討するに、成立に爭のない乙第四号証の一乃至五、乙第五号証の一、郵便官署作成部分の成立について爭がなく、その余の部分の成立は前掲証人長町の証言により眞正に成立したと認め得る乙第一〇号証の一、二、及び乙第一一乃至第一四号証、郵便官署作成部分の成立について爭がなく、その余の部分は当裁判所が眞正に成立したと認める乙第一五号証の一、二、前掲証人池田、泉及び長町の各証言を綜合すれば、長町は昭和二十一年七月頃崖崩れに遭い家屋を失つたところ、こま及び冨士藏は、これに同情し、当時前記のような事情で原告は寺を出たところであり、こま及び冨士藏は七〇歳前後の高令で、しかも本件農地の耕作の業務を継ぐものもないのに反し、長町は四〇数歳の働き盛りであつたので、事実上の養子として、長町を彌勒寺に引取り農耕の手傳をさせ、昭和二十三年四月頃には一時四国方面に遍路に出たりして、漸次本件農地の耕作を長町に委ねるようになり、次で同年末には、冨士藏は長町に後事を託して再び四国に遍路に出、こまは、精神病(妄想性精神分裂症)の治療のため、鳴門腦病院に入院し、翌二十四年一月には死亡してしまつたが、長町はその間單独で、本件農地を耕作し、供出の責務も果していたことが認められる。しかして、原告は北海道帝国大学農学部を卒業し、農村の技術員、会社の自給農場の監督等の経歴を有し、前述のように、こま、富士藏らの農耕の補助をしていたことはあるが、本件裁決当時既に六八歳に達する高令者であるのみならず、農耕の業務に從事すべき後継者もいないことが、前掲証人岩本、坂本(第一、二回)の各証言、原告本人尋問の結果により認められる。以上の事実からすれば、被告において、自作農として農業に精進する見込あるものとして、原告ではなく長町を選んだことは、社会通念に照し著しく不当であるとは到底解し得ない。從つて、原告の前記主張も採用の限りでない。
そこで、原告の請求はこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九條を適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 古川静夫 谷賢次 保津寛)
(目録省略)